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ホーム財団アラカルトRoad to Dazaifu|歴史の道・時の扉 燃えさかる伝統の炎・肥前磁器の里 その2(佐賀県有田町)

財団アラカルト
TheRoadtoDazaifu 〜太宰府への道〜
2009年02月28日

歴史の道・時の扉 燃えさかる伝統の炎・肥前磁器の里 その2(佐賀県有田町)

2.陶祖・李参平の肖像

●焼物バブルと焼物戦争
 
 普段の有田町は、ひなびた風情の静かな山間の街だ。れんが造りの煙突が空に何本も突き出し、製磁街らしいたたずまいを醸し出す。
 江戸時代初期に起こった磁器製造とともに興った街には、江戸・明治・大正・昭和に建造された歴史的な町家が並び、有田内山重要伝統的建造物群保存地区にも指定された。有田町に訪れる観光客は年間150万人ほどだというが、そのうち100万人がゴールデンウィークに開催される「有田陶器市」に集中する。焼物を含めた有田の風情を堪能するには、普段の有田を歩くことをおすすめしたい。
 
歴史的な街並の残る有田町
歴史的な街並の残る有田町
そんな有田のメインストリートに、白壁土蔵のこぢんまりとした「陶祖・李参平窯」がある。陶祖・李参平の子孫が開いたギャラリーである。当主は代々李参平の和名とされる金ヶ江三兵衛(かねがえ・さんべい)を名乗り、現在は省平氏が14代を襲名している。
 「1616年、朝鮮から渡って来た陶工・李参平が泉山磁石場を発見し、天狗谷窯(てんぐだにがま)を開き日本で初めて磁器を焼いた」。この有田焼の起原は広く一般化しているものの、半ば伝説として語り継がれてきた。
 初代三兵衛が活躍した時代の「初期伊万里」の陶片を研究し、作品づくりに活かしているという14代三兵衛氏にお話をうかがってみると、伝説と史実の狭間が垣間見えてきた。
 
 李参平が朝鮮から日本へ渡ってきたのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役1592〜58)の時だ。朝鮮出兵は別名“焼物戦争”と呼ばれるほど、唐入りした各大名は争うように陶工や儒学者といった技術者・文化人を自領へ伴った。江戸時代初期に、萩焼(長州藩)、薩摩焼(薩摩藩)、高取焼(黒田藩)などが興ったが、それぞれ朝鮮人陶工を祖としている。
 安土・桃山時代は、空前の焼物バブルの時代でもあった。文化としての茶の湯が熟成する中で、織田信長が政治にも茶の湯を用いるようになり、武士や豪商の中で急速に広まった。
 当然、茶の湯に用いる道具にも注目が集まり、特に日本では製造できなかった青磁や白磁、朝鮮では庶民が使う雑器とされた「井戸茶碗」などの舶来品が珍重された。「茶入れ」や「茶碗」といった道具の中には「一国に値する」という莫大な価値がついたものさえあった。また、千利休らにより、国産の陶器生産も振興され、舶来者に追いつき追い越せと作陶技術が向上した。

 そんなご時世である。朝鮮半島へ攻め入った武将たちが陶工を連れ帰ったのは、憧れの焼物を作る技術導入を図ったということだ。だが逆の立場からすると、作陶の技術を略奪された、という見方も成り立つわけだ。侵略というのは、いわば負の国際交流で、朝鮮側には得るところはなかった。前述の通り、日本各地に作陶の先進技術が伝わり、焼物文化が花開いた。
 陶工が連れ去られた朝鮮では、陶磁器を作る人がいなくなり半島の焼物製造は空洞化する。また、朝鮮支援の軍を送っていた明国も、莫大な戦費を使い国力は衰えた。明滅亡の遠因は秀吉の唐入りともいわれ、内乱状態となった中国から陶磁器の輸出量が激減。中国製磁器の代替品として、肥前磁器は伊万里焼きとしてヨーロッパへ盛んに輸出され、肥前磁器の黄金時代が到来したのだから、皮肉なものだ。

●金ヶ江三兵衛という実像

 どれほどの朝鮮人陶工が日本に渡ったのかは分からない。だが、十数年後に各地の窯で本格的な生産が始まったのだから、少なくない数だったはずだ。
 その中の一人が李参平である。
 
 有田焼の起原が半ば伝説だ、と書いたのは、李参平という人物像が定まっていないことも要因の一つだ。そもそも、李参平という名前が“本名”であるかも定かではない。
 残る史料からはっきりしているのは、朝鮮から来た陶工の中で鍋島藩に帰化し、性を佐賀藩に認められて、金ヶ江三兵衛を名乗った人物がいたということ。有田町の龍泉寺の過去帳に1655年に没したと記録があり、墓標もある。言い伝えの通り、初代三兵衛という人物が、日本最初の磁器を焼いたかは分からないが、陶工のリーダーとして有田の地にシステマチックな分業体制をしくために力を注いだということは疑うべくもないだろう。
 
14代金ヶ江三兵衛夫妻
14代金ヶ江三兵衛夫妻
初代三兵衛は一説によると、忠清南道金江(現韓国)出身で李姓とされているが、帰化以前の姓名は記録されていない。明治時代に、和名の「さんべえ」から類推し、言い伝えの姓と組み合わせて、“李参平”という韓国名を“命名”されたのではないか、というのが14代の見解である。
 当時李氏朝鮮といった半島では、李姓は王族に連なる高貴な姓だ。一般的に朝鮮では陶工などの職人は身分が低いのが常である。陶工が李姓を名乗っているのはなぜか? 鍋島勢は文禄の役では主に全羅道を担当した。慶長の役では、日本勢は制海権を握られて大苦戦し、鍋島は忠清南道の金江へ到達できたのか、定かではない。一応、慶長の役の時に三兵衛は鍋島軍の道案内役をし、肥前の地に来たことになっている。

 一方で異国の地で作陶に生涯をかけ、有田皿山の礎を築いた金ヶ江三兵衛は、その名が記された文献はわずかだが、しっかりとした実像を残している。李参平と金ヶ江三兵衛。同一人物であるはずなのに、名前から伝わる印象のギャップが、史実を伝説にしてしまった。

 第14代三兵衛氏は、韓国に作陶を学び、現在も交流を続けながら、初代三兵衛の時代の息吹を今に伝えようと精力的に活動している。作陶もさることながら、ギャラリーやホームページでの情報発信など、触れる機会は多い。

 有田焼の起原は、李参平話以外にも数バージョンあり、どれが史実に近いか? という精査はこの際置いておく。ぜひ、有田の街を歩いて、歴史の謎解きにチャレンジしてほしい。
 ともあれ、陶祖・李参平伝説が史実かどうかは、いまもはっきりしない。だが、初代金ヶ江三兵衛が肥前磁器の象徴だったことは、陶山神社へいけば見えてくる。(続く)
 

陶祖 李参平窯ホームページ

 


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