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ホーム財団アラカルトRoad to Dazaifu|歴史の道・時の扉 燃えさかる伝統の炎・肥前磁器の里 その3(佐賀県有田町)

財団アラカルト
TheRoadtoDazaifu 〜太宰府への道〜
2009年03月03日

歴史の道・時の扉 燃えさかる伝統の炎・肥前磁器の里 その3(佐賀県有田町)

3.陶山神社からの眺め

●焼物で彩れた境内
 
 有田陶粗神・陶山神社は「とうざんじんじゃ」と地元で読み習わされているが、正式には「すえやまじんじゃ」と読む。
 李参平窯から歩いて10分足らず、有田のメインストリートにほど近い小高い丘の上に建つ。参道の階段を上って鳥居をくぐり、さらにJR佐世保線の線路をまたいでご参拝しなくてはならない。ご神域に線路が通っているのは珍しい。明治時代、鉄道敷設の計画時には神社の境内をまっぷたつに横断するはずだったが、住民の強硬な反対で現在の、境内の端に通すことになったという。
 住民の尊崇は、過去も今も篤い神社なのだ。
 
磁器製鳥居は全国でも珍しい
磁器製鳥居は全国でも珍しい
 製磁街の神社らしく、境内には磁器製の鳥居、狛犬、欄干などが随所に奉納されている。鳥居白磁に天然呉須のブルーで描かれた唐草紋様のもので、1888(明治21)に奉納された。現在は、100年以上の風雪で決して「鮮やか」という状態ではないが、えも言われぬ風情がある。紅葉のシーズンには、磁器製の奉納物と色づいた木々とのコントラストが見ものだ。通常石や木でできたものが磁器に置き変わるだけで、異国にもない、有田だけの風景となる。磁器製鳥居から振り返ると、焼物の里が見渡せる。
 
 創建はご由緒によると約 350 年前の1658(万治元) 年、有田皿山代官の命により、伊万里市大里二里町の郷社である八幡宮からご分霊し、当初は「有田皿山宗廟八幡宮(ありたさらやまそうびょうはちまんぐう)」と称した。有田で磁器が焼かれるようになった時期は諸説あるが、この神社の創建は、有田の磁器が海外へ輸出され始めたころで、有田皿山の隆盛をもたらした“福の神”であったのかもしれない。
 陶山神社と呼ばれるようには明治以降で、そのころから佐賀藩祖鍋島直茂と陶祖李参平も祀られるようになった。肥前の地に「焼物の里を創ろう!」という熱情を持った二人である。
 二人が存命の間、両者が言葉を交わしたのかは分からないが、あの世で肩を並べて有田皿山の来し方と行く末を見守っているのではないだろうか。

●2人のリーダー

 有田に皿山ができたのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵があったから。当時は焼物バブルで、出兵した大名が争うように陶工を連れ帰ってきたから、という時代背景であったことは以前に触れた。
 だが、たまたま鍋島藩が連れ帰った陶工が非常に優秀で、たまたま泉山磁石場が発見されたことで肥前磁器が誕生したのだろうか。通説の1616年の磁器焼成開始から数十年を待たずに、海外へ肥前磁器が伊万里焼として輸出されているのだ。明確な意図や計画、資本投下がなければ、このような急速な発展はあり得ない。“たまたま”では産業は興らないものだ。
 おそらく佐賀藩主・鍋島直茂は朝鮮出兵後の早い時期から、準備を進めていたのだろう。もしかしたら、派兵当初から計画をしていたかもしれない。金ヶ江三兵衛の肥前においての生涯を見ると、そう思えてしまう。

 初代三兵衛は“金ヶ江”姓を正式に名乗っている。士農工商の時代、姓が名乗れるのは社会的地位や身分がそれなりに高いことを示す。初代三兵衛は多久などで作陶し、より適した場所を探して各地を調査して歩いたという。幕藩体制が安定に向かい、多くの人々が身分や土地に縛られようとしている時期だ。かなりの高待遇だといっていい。藩から身分を保証され、知行も得て、国営事業でもある皿山での作陶に従事したのだ。三兵衛を藩がどれだけ厚く遇していたかが分かる。
 
境内から有田の街が見渡せる
境内から有田の街が見渡せる
 高麗ものといわれる焼物には名品が多い。が、名陶工の名は残っていない。当時の朝鮮は儒教社会で、どれだけ優れた陶磁器を作っても名も残らないものだった。一方、当時の日本では、大名や豪商が窯のパトロンとなり、陶工たちは良いモノを生み出そうと競い合っていた。楽焼きの創始者として歴史に名を残す陶工・長次郎は安土桃山時代、その名声を得ていたはずだ。
 没年から逆算すると、朝鮮出兵のころ三兵衛は二十代である。作陶に生涯をかけようという意気込みがあれば、より良い環境を得ようと進んで海を渡った可能性もある。鍋島の軍は三兵衛の居住地を通っていなかったというが、別動のスカウト部隊が派遣されたとしたらどうだろう。刃を突きつけて、ではなく、ひざを突き合わせて口説き落とした、のかもしれないではないか。
 「このような計画がある。そのためにこれだけの予算があり、こういう待遇もする」。肥前藩士のプレゼンテーションの中には、肥前の山の情報もあって「かの地には磁石鉱があるはずだ」という確信すら、三兵衛に抱かせた…。
 というのはあくまでも推定である。無理矢理か、自らの意志か。実際は、どちらの要素もあっただろう。だが、肥前には進んだ技術を迎え入れ、発展させるさまざまな意味での“土壌”があった。
 鍋島直茂というリーダーが、金ヶ江三兵衛というリーダーを招き寄せた。両者は、身分や国の垣根を越えた同士だった。だからこそ、陶山神社に並んで祀られた。

 磁器創成300年を記念して、1917(大正6)年には、高さ約6mの陶祖李参平碑が建立された。毎年、有田陶器市が開催されている5月4日に「陶祖祭」が開催されている。
 

陶山神社ホームページ

 


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