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ホーム財団アラカルトRoad to Dazaifu|歴史の道・時の扉 人と神仏がともに暮らす緑の里 宇佐・国東 その5(大分県宇佐市)

財団アラカルト
TheRoadtoDazaifu 〜太宰府への道〜
2009年10月26日

歴史の道・時の扉 人と神仏がともに暮らす緑の里 宇佐・国東 その5(大分県宇佐市)

5.千年を超える祈りの里

●六郷満山の発展
 六郷満山は、国東半島の山から里へと展開した。
 比売大神が降臨して宇佐神宮の原型となった御許山をはじめ、豊の国の山々は霊山として信仰の対象である。古くから根付いていた山岳信仰の聖地は、奈良時代後期から平安時代にかけて、天台宗の寺院に形を変えて現在にいたるまでずっと崇敬され続けてきた。

 六郷の寺院は、学問(研究)の本山、修行の中山、布教の末山と、機能によって3つに区分される。半島内でのそれぞれの分布を見ると、御許山にほど近い豊後高田市に本山、両子山を中心とした中央部周辺に中山、人の住む里から沿岸部にかけて末山が、という風に広がっている。各寺院には、六所権現、三所権現、奥之院といった八幡大神に関連する神を祀った社が同居し、明らかに神仏習合の様相を呈す。
 宇佐神宮から、神仏習合の教えがどのように広まっていったか、寺院の分布からも見て取れる。

 富貴寺・真木大堂(馬城山伝乗寺)が、本山を代表する寺院であるなら、これからご紹介する2つの寺院は、厳しい修行の場である。

●温和な表情の不動明王・熊野磨崖仏
 ふもとの今熊野山胎蔵寺(いまくまのさんたいぞうじ)の脇から、熊野磨崖仏へいたる参道へ向かう。磨崖仏の入り口である鳥居までは、整備されて難なく歩ける。が、鳥居の向こうに伸びる山道を見ると絶句した。
 鬼が一夜にして築いたという乱積みの自然石の石段と、垂直に見えるほどの急勾配。距離にすると300メートルほどだが、これは修行、というほかない。
 今日でも数年に一度行われる「嶺入り」では、御許山から宇佐神宮を経て、まず熊野磨崖仏を目指す。総計185ヶ所の霊場を回る厳しい道のりの出発点だ。その行程に比べたら軽い修行だが…。

 ようやく登り切り、磨崖仏の御姿を目にすると、荒い息を飲み込んでしまった。「デ、デカイ」。
 向かって左側の不動明王は、高さ8m。小さく見える大日如来でも高さ6mはある。なんといっても、本邦の磨崖仏の中では最大級なのだ。
 
鳥居の向こうは“修行”の道
鳥居の向こうは“修行”の道
壮大な熊野磨崖仏の全景
壮大な熊野磨崖仏の全景
 表情も特徴的だ。風化のせいかもしれないが、不動明王の口元はほころび、ほほ笑みかけているように見える。一方大日如来は静かだが、切れ長の目元には厳しさが漂っている。
 密教では、仏さまは三つの姿で現れる、とされる。悟りの境地そのままを示す「自性輪身」(じしょうりんじん)、分かりやすく教え諭す「正法輪身」(しょうぼうりんじん)、仏法に従わない者を脅し襲え諭す「教令輪身」(きょうりょうりんじん)。不動明王は、大日如来の教令輪身の姿といわれる。熊野磨崖仏は両仏がセットで刻まれているが、表情は普通と正反対だ、というのが面白い。

 不動明王像の脇には、矜羯羅童子(こんがらどうじ)制多迦童子(せいたかどうじ)の痕跡が残る。また、不動明王と大日如来の間の龕(がん=岩を削ったくぼみ)にも、レリーフが見える。こちらは神像といわれ、両仏身をつなぐような位置にある。
 推測に過ぎないが、六郷満山では民衆に分かりやすく教え諭す「正法輪身」は仏身ではなく、神社の神さまだったのではないか。

 磨崖仏から石段をさらに登ると、熊野神社がある。熊野神社の本殿も崖をうがって、くぼみの中におさまっていた。参拝をすませて、険しい山道を下る。「仏さまが見守ってくださっている」。そんな思いが、下りの足取りを軽やかにさせてくれるだろう。
 

●両子寺、国東半島のど真中へ(国東市)
 国東半島の中心、両子山の中腹にある両子寺。駐車場から参道へ進むと、国東半島最大級の仁王像が出迎えてくれる。
 参道は落葉樹のアーチで、紅葉シーズンは極楽へ続く階段であるかのような美しさ。新緑のころは生命の息吹が参道に満ち、参拝を終えると生まれ変わった感覚になる。

 両子寺は中山本寺で、六郷満山の修行の中心寺院だった。特に江戸時代は、杵築藩の庇護を受け、六郷満山を統括する総持院(そうじいん)だった。
 六郷満山の「嶺入り」のゴールでもあるが、現在は厳しい修行の場というよりも、子授けの祈願所、安産・厄除け・交通・家内安全・航海安全などの祈願の場として、広く親しまれている。
 
 広大な敷地には護摩堂、大講堂など堂宇が点在する。護摩堂の本尊・不動明王像は背負った火炎の動きが見事。両子寺を訪れた際は、ぜひ奥之院までは足を伸ばしてほしい。
 奥之院は切り立った崖のくぼみにぴたっとおさまるように建つ。この堂宇は杵築藩主松平親良(ちかよし)が弘化3(1846)年に寄進したもの。堂内では、千手観音立像、両子大権現(男・女二天童子像)、宇佐八幡神像、仁聞菩薩像を祀る。神さま仏さまが一堂に集合しているのだ。
 
両子寺の参道
両子寺の参道
切り立った崖に建つ奥之院
切り立った崖に建つ奥之院
 奥之院と背後の岩壁には隙間がある。中は洞窟のように暗く、電燈のわずかな明かりを頼りに中へ進むと、祭壇が設けられ、千手観音をはじめとした8体の仏像が安置されていた。
 六郷満山には、崖のくぼみに建てた岩屋寺院が多いが、もともとはこのように、くぼみを屋根にした素朴な祭祀を行っていたのだろう。
 暗くて確認はできなかったが、安置された仏像の中には焼仏もあるという。両子寺が火災にあったときの名残だそうだ。両子寺を開基した仁聞は若かりしころ、体に油を塗って体を焼くという修行を3年も行った、という。焼仏は、仁聞菩薩が顕現した姿なのかもしれない。

 両子寺は両子山登山のベースとしても人気が高い。この登山道も、かなり険しい。山頂からは六郷の山々が見渡せ、「全国森林浴の森百選」にも選ばれた清涼な空気を深く吸い込めば、厳しいだけじゃなく、優しい国東の風土を実感できるはずだ。

●半島から列島へ
 学問から修行ときて、もっとも庶民に近い布教の末寺はまた別の雰囲気をたたえている。今回は至福の都合でご紹介できず、ページ構成では“満山”は完成しなかったが、充分に六郷満山の奥深さは感じられたことと思う。この続きは、国東半島へ出かけてご自身の目で確かめていただきたい。

 山から里へと降りてきた神仏習合の文化は、里から海辺に達し、そして海を渡った。
 東大寺において大仏が建立されていた天平勝宝元(749)年。宇佐神宮の禰宜(ねぎ)が「大仏建立せよ」という八幡神の託宣を携えて平城京入りした。
 この史実が、全国的に神仏習合が広まるエポックメイキングとなる。
 入京をきっかけに、八幡神には「八幡大菩薩」という神号がついた。また、八幡神は仏法の守護神として、全国の寺院に勧請された。

 奈良時代以前の歴史をひも解くと、厩戸皇子(聖徳太子)と蘇我氏が組み、物部氏との争いがある。この争乱には崇仏派(厩戸皇子側)と非仏派(物部氏側)との対立があった。列島古来の信仰と仏の教えは、衝突するものだった。

 国東半島では、渡来系の神と固有の神が融合し、その神々が仏の教えと習合した。繰り返しになるが、宇佐で興った神仏習合は、習俗信仰の違う人々でも一緒に暮らしていける「ライフモデル」である。
 鎮護国家(ちんごこっけ)の象徴とされる東大寺に、八幡大神が勧請されたのは、争いのない平和な社会を築こうという意図があったはずだ。

 大仏建立から約1300年が経とうとしている。だが、誰もがお互いを尊重し、安心して暮らせる世の中へは、その道程の途中である。
 宇佐や国東半島の寺社を巡るときは、自分や家族のご利益(りやく)だけでなく、もっと大きな願いをこめて参拝していただきたい。
 古代の人が夢見た“極楽浄土”が早く、実現するように…。
(文責・高野龍也)
 

 


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