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ホーム財団アラカルトRoad to Dazaifu|歴史の道・時の扉 日本交流史のフロンティア・平戸 その1(長崎県平戸市)

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TheRoadtoDazaifu 〜太宰府への道〜
2010年06月08日

歴史の道・時の扉 日本交流史のフロンティア・平戸 その1(長崎県平戸市)

1.洋の東西と時間が織りなす風景

 ゆるやかなカーブを描きながら広がる仏教寺院の屋根の向こうから、ニョキッと顔を出す教会の屋根。
 平戸市街地の一画では、西洋と東洋が同居するエキゾチックな風景を見ることができる。
 古くからアジアと盛んに交流し、大航海時代には西洋文明の上陸地として栄華を誇った、国際都市平戸を象徴する風景として、市の観光ガイドなどにも紹介されている名高い風景だ。

 下に見える寺院は、光明寺(浄土真宗)、瑞雲寺(曹洞宗)といった古刹であるが、教会は、昭和6(1931)年に建設されたカトリック教会。昭和46(1971)年に平戸にゆかりのあるフランシスコ・ザビエル像を建立した際に「聖フランシスコ・ザビエル記念堂」に名前を改められた。

 戦国時代の末期である1550年にポルトガル船が初めて入港し、江戸幕府に長崎出島へ交易の窓口が一本化された1641年までの約1世紀。実際には、平戸が西洋との交易が盛んだった時期に、この風景を見た人はいなかった。
 
 それでも、交流した世界の広がり、時間の積み重ねを1枚の“絵”として見ることができる、この街角は、平戸のシンボルであることに、異論を唱える人はいないだろう。
 
国際都市平戸を象徴する風景
国際都市平戸を象徴する風景
聖フランシスコ・ザビエル記念堂
聖フランシスコ・ザビエル記念堂
●交流の歴史は、10万年!?
 
平戸市は、長崎県の北西部にある平戸島を中心した九州本島においては最西端の都市である。生月町、田平町、大島村と合併して市域が拡大したものの、面積的にもっとも高い比率を占めているのが、平戸島だ。

東西に約10kmのこの島は、古くから海外との交わりが深い島として知られている。地図を参照すると、平戸の西には朝鮮半島と中国大陸が、間近といっていい距離にある。
奈良・平安時代の遣唐使の寄港地として、戦国時代末期からは大陸に加えて西洋諸国の商館が建つ日本屈指の国際都市に成長した。
鎖国後は長崎・出島に海外との窓口が一本化されたこともあり、海外交易港としての役割は終えたが、それまでは、日本の対外交流のフロンティアであり続けた。

列島屈指の国際都市平戸。その面影は現在も各地に残っている。つぶさに見ていくと、平戸という港町の面白さは、大陸の周縁にある「日本」という国の交流史の縮図であることがよく分かる。

平戸市山中町には「入口遺跡」という遺跡がある。2003年の調査で、約9〜10万年前の地層から石器が出土したと発表された。メノウ製の石器は、韓国南部の遺跡との関連性も指摘された。
年代に関してはまだまだ議論が続いている段階なので、あくまで可能性に言及する域を出ないが、列島に人類が移住してきた時期やルートを探るヒントが入口遺跡に見つかるかもしれないのだ。
人類はアフリカ大陸で誕生し、彼らが旅をして世界中に人類の生活が展開した、という。とりわけ、東アジア、そしてその東端にある日本列島には、もっとも長い旅を経て人類が到達した。私たちの先祖たちの旅をして「グレートジャーニー」と呼ぶ。日本列島の人間の営みがはじまった時点が、列島の交流史の起点だとすると、現時点では平戸が、その“起点”に近い場所なのだ。
 
大師像の建つ高台
大師像の建つ高台
唐の都を指差す若き日の空海
唐の都を指差す若き日の空海
●遣唐使の島
 
旧石器時代から、一気に時代は下る。
縄文時代、弥生時代、古墳時代を経て、列島は畿内の大和政権による古代国家体制へと集権する。「肥前国風土記」によると、景行天皇が志式嶋(しじきじま)に行宮(かりみや)を造営したという記述がある。
天皇が行幸したことが史実かどうかはおいといて、平戸島が新羅などの前線拠点として整備されていた可能性は高い。大和政権と百済遺臣連合軍と、唐・新羅連合軍が戦った白村江の戦い(663年)の例があるように、古代の東アジアは緊張状態にたびたび陥ったからだ。
同島東端に志々伎(しじき)という地名が今も残る。現在は天然ヒラメの水揚げ港として名高いが、古代のある時期、志々伎が平戸の中心地であったかもしれない。
対馬の金田城(かねたのき)という朝鮮式山城が白村江の戦いの後に築城された。このよう大規模な開発の記録はないが、対馬→壱岐と飛び石的に侵攻してくるであろう唐・新羅連合軍の侵攻ルートを想定すると、平戸に防人を駐屯させたのは想像にかたくない。
実際、鎌倉時代の元寇では、平戸でも激戦が展開した。元寇遺構も残っているが、それは後で紹介したい。

大陸との交流はマイナス面ばかりではない。大陸の進んだ文化を取り入れようと、朝廷は使節団を派遣する。いわゆる遣唐使である。
630年の第1回目の派遣から、菅原道真が遣唐使を廃止する894年まで、200年以上も船団が玄界灘を超えて行った。
平戸は往路では九州本土側の最後の寄港地であり、復路においては最初に踏む故国の土だった。当時、遣唐使の航海は大変危険なもので、列島を発したすべての船が欠けることなく戻ったのは1回しかない。命がけで旅立ち、先進文化を必死に吸収しても、帰国できるかは五分五分…。遣唐使が平戸を離れるときの胸が張り裂けるような思い、また立ち戻った時の心から安堵する気持ちは、想像を超えるものがあったに違いない。平戸には単なる“通過点”ではない、特別な気持ちがあったはずだ。

804年の遣唐使は、弘法大使空海も参加したことで知られている。大阪を出港した船団は、風待ちのために、平戸島北端の田の浦にしばらく滞在した。
田の浦の穏やかな入り江を見下ろす高台には、空海ゆかりの知として、青年空海の旅立ちの様子を刻んだ石像「渡唐大師尊像」が設置されている。厳しい表情で指差すその先は、唐の都長安(現西安)だ。
筆者が訪れた時は、晴天ながら風強し。向かい風に踏ん張りつつ、大師像と対面した。「この風に乗って、空海は大陸へ向かったのだろうか?」。神妙な気持ちになった。

また滞在中の空海が杖で泉源を指したという、田の浦温泉が付近にある。遠く関東、関西からも湯治客が訪れる、弘法大使ゆかりの湯も味わってみてはいかがだろうか。
 

2.中世の平戸 へ続く

 


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