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ホーム財団アラカルトRoad to Dazaifu|歴史の道・時の扉 日本交流史のフロンティア・平戸 その4(長崎県平戸市)

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TheRoadtoDazaifu 〜太宰府への道〜
2012年06月19日

歴史の道・時の扉 日本交流史のフロンティア・平戸 その4(長崎県平戸市)

4.現代に蘇るオランダ商館・現代に残るオランダ

●現代に残るオランダ遺構、蘇ったオランダ商館
 
 平戸オランダ商館が2011年秋に、復元された。
 平戸崎方町にオランダ船が始めて入港したのが1609年、江戸幕府によってオランダ商館が長崎へ移転される1641年まで32年間、平戸にはオランダ商館があった。この度復元されたのは1639年、崎方町の岸壁に立っていたオランダ商館の倉庫だ。
 白い壁にアーチ門、そして屋根瓦。当時の外観を忠実に再現したというこの建造物は、日本で最初の西洋式の石造建築物とされている。建材の調達が難しかったのか、第1号建築物がすでに和洋折衷だったのだから面白い。教会以外の西洋建築物は当時は珍しかったであろうから、日本の城以上のインパクトがあったことだろう。
  
 1938年に建造されたこの館は、翌39年にポルトガル船追放令(いわゆる鎖国の完成)後、幕府の調査が入り、建物のあちこちに西暦が書かれてあったことから、キリスト教関連施設と断定され、1640年には破壊された。西暦が当時の“異教”の開祖イエスの誕生年にちなんだものであることぐらいは、幕府も知っていた。

 その後1922年、跡地は「平戸和蘭商館跡」として国史跡に指定され、1987年からは本格的な発掘調査がスタート。文献資料の断片的な記録と発掘資料を元に復元された。全館が資料展示で、消滅から約400年後に復活した。
 当時を忠実に再現するために、2万個以上の切石を使った石垣や、50cm四方の柱が用いられた。まだ木の香りが漂う館内に立つと、現代人でも圧倒される。
 平戸オランダ商館では企画展示なども行われているので、訪れてみてはいかがだろう。
 平戸オランダ商館公式ホームページは こちらから
 
復元されたオランダ商館
オランダ塀と石畳
 
 崎方町には、幕府の破壊命令を逃れ、現在にもオランダ遺構が残っている。
 その一つである「オランダ塀」は漆喰で塗り固められた塀に囲まれた石段、道である。
苔むした造作に多少の風情を感じるもののパッと見た限りでは、それほどエキゾチックな雰囲気は感じない、という人も多いかもしれない。

 オランダ商館の機密保持のために築かれたこの塀は、最大で高さ2メートルあり、底辺は約70センチある。江戸時代の平戸の絵図には「阿蘭陀塀」と記されていて、商館時代の名残が地名となって残っていたことがうかがえる。当時の平戸っ子はどんな思いで、「オランダ」を語り継いでいたのだろう。

 江戸時代の終わりに、吉田松陰が平戸を訪れた。山鹿流兵学という学問を修めるために53日間の逗留だった。
 松蔭は旅の途上、詳細な手記を残しているが、このオランダ塀の風景に「日本の中の外国」を感じ、その思いを綴っていた。当時の日本人にとって、オランダ塀の風景はエキゾチックに映ったのだ。

 平戸遊学の後松蔭は、長崎へ行ってオランダ船に乗船、熊本で生涯の盟友となる肥後藩士・宮部鼎蔵と出会った。幕末を代表する思想家、活動家にして教育者である吉田松陰の志に、火がついたのは間違いないだろう。

 吉田松陰が感激した景色を今も同じように見ることができるオランダ塀。幕末ファンの人にもおすすめの景色だ。また松蔭が宿をとった紙屋という宿の跡(平戸市浦の町)には、小さな石碑が残っている。

 オランダ塀を下り、海に出ると「オランダ埠頭」と呼ばれる海に突き出した堅固な石段がある。この港にオランダ船が停泊し、ヨーロッパからの荷をおろし、日本からの輸出品を運び出した。

 オランダ塀とともに、当時の様子を知ることができる貴重な遺構で、いずれも風雪に耐えて現在も原形をとどめているのは、驚くべきことだ。平戸藩がいかにオランダ交易に力を入れていたかが分かってくる。

 「オランダ井戸」「常灯の鼻石垣」とそれほど多くはない。が、オランダ商館一帯こそが、オランダとの交易のために埋め立てられ、整備された“歴史遺構”なのである。
 
今日も堅固なオランダ埠頭
崎方公園の三浦按針墓
  
 貿易施設は拡充し、ついには平戸港だけでは収拾がつかなくなり、平戸市街地から10キロほど南にある川内という入り江を副港とし、オランダ商館倉庫などを整備した。また近隣の歓楽街の丸山もずいぶん賑わったが、現在は碑が建立されているのみで、昔日の繁栄は想像するほかはない。

 平戸には、イギリス商館もあった。
 平戸の海外貿易の功労者の一人に、三浦按針の名前で知られる英国人ウィリアム・アダムスが挙げられる。アダムスは、徳川家康に重用され幕府の外交顧問として活躍し、外国人でありながら旗本に取り立てられた数奇な人生を送ることになる。

 アダムスは日蘭・日英の交易に力を注ぎ、晩年は平戸のイギリス商館で執務を取った。1620年に平戸で没するまで、母国への帰国を望んでいたが、願いはかなわなかった。
 平戸市木引田町の十八銀行前にイギリス商館跡の石碑が建つ。また同町内には、三浦按針が住んだ町家が現存しておりコミュニケーションスペース「按針の館」として開放されている。
 また崎方公園には、三浦按針の墓もある。


 平戸が世界地図に掲載されるほどの国際都市であり得たのは、インフラ整備などの開発を積極的に行ったからなのだろうか。あるいは織田信長の楽市楽座のような規制が少ない「経済特区」的な場所であったからだろうか。平戸が栄えたことだけは事実である。
 
 今日も「国際都市」を標榜し、かつそれを目指している都市は多い。平戸を見ると、国際都市は、単に地政学的な利点で偶発的に発展するものではなく、計画的な都市開発や地元に住む人のホスピタリティが不可欠だ、ということを端的に示しているような気がしてならない。

 平戸の歴史は「国際化」の古典的な教科書だと言っても大げさではないだろう。
(文責 高野龍也)
 

 


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