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ホーム財団アラカルトRoad to Dazaifu|歴史の道・時の扉 隼人たちが駆けた海原・薩摩半島南部 その2(鹿児島県南さつま市坊津)

財団アラカルト
TheRoadtoDazaifu 〜太宰府への道〜
2013年03月11日

歴史の道・時の扉 隼人たちが駆けた海原・薩摩半島南部 その2(鹿児島県南さつま市坊津)

2.坊津の交流史

●国の名勝双剣石

 坊津は、古代から近世までの長きにわたり、貿易港として繁栄した。
 明代に編まれた歴史書・兵法書「武備志」において、博多津(福岡市博多)、安濃津(津市)とともに日本三津(三箇の津)として紹介されるほど、高名な港だった。
 地図を見ると、秋目(あきめ)、久志(くし)、丸木(まるき)、泊(とまり)、坊(ぼう)などの港町を見ることができる。坊津とは、ある港を指すのではなく、坊ノ岬から、鑑真が上陸した秋目あたりまでの旧坊津町の海岸線一帯を指す地名ということもできる。

 リアス式海岸の入り組んだ地形が荒波を阻み、自然と港湾都市となった。
 雄大な自然美が魅力の坊津地区だが、千年以上も人や物が流通した悠久の時間も取り込んでいる。

 時間の扉を、国の名勝として高名な双剣石から開いてみよう。
 
リアス式海岸の眺め
景勝地双剣石の遠景
使い古された表現だが、まさに一幅の絵のような光景だ。海上に突き出された二振りの刀のように巨岩がそそり立つ。 港に入ってくる不吉なものを振り払う剣だ。
 水墨画の題材になりそうな枯れた風情もあって、眺めていると時間を忘れてしまいそうだ。

 この風景は歌川広重が「六十余州名所図会」で描いていたことからも、江戸時代後期には景勝地として広く知られていた。


●坊津の由来となった一乗院跡

 坊浦を望む小高い丘の中腹に、坊津一乗院跡という旧跡がある。
 真言宗の寺院で、16世紀には後奈良天皇の勅願寺(天皇や上皇が国家鎮護や皇室繁栄を祈願する寺)になり、歴代薩摩藩主の保護も受け、江戸時代には薩摩藩屈指の有力寺院であった。
 寺院跡地の発掘調査では、大量の中国製陶磁器が出土し、坊津の交易に関わっていたことが推定されている。
 坊津の地名は、一乗院の仏教文化が盛んで、高僧や学僧が活躍していた港町であることが由来といわれ、真言宗寺院としては薩摩最古刹といわれる。

 寺伝によると、創建年は538年。百済の僧・日羅が仏教普及のために建立した、とされている。538年とは、日本に仏教が正式に伝わった(仏教公伝)の有力な節の一つである(もう一説は552年)。仏教伝来について現在、年代を特定せず「6世紀中ごろに伝わった」というのが定説となっているが、仏教公伝と一乗院創建が同じ年というのは、興味深い。
 あくまでも創建年は寺伝、つまり言い伝えであり、また信仰の対象なので、年代の真偽についてはここでは触れない。
 南九州には、かなり古い時代から仏教が伝来していたこと、一乗院が古い創建であることが信じられるほどに、尊崇を集めていた。

 日本に仏教が伝わったのは、朝鮮半島の百済経由だといわれている。
 一乗院の創建が百済の僧日羅であること。また坊津が朝鮮半島との交易も行われていたことから、百済から日本へ「仏教伝来の道」の坊津が中継地点になったかも…。という想像を巡らせたくなる。

 一乗院が栄えたのは13世紀ごろからとされ、実際の創建年代ともその時期ではないか、という説もある。
 「島津氏中興の祖」とされ、戦国大名島津氏の始祖となる島津忠良(1492-1568)が勢力を伸ばすとともに、南九州屈指の有力寺院になっていく。
 忠良は、5〜15歳の時に一乗院で過ごしていたが、この時に交易港坊津の姿を見て貿易の重大さを肌身にしみて感じていたのだろう。晩年忠良は、加世田(現南さつま市)で隠居したが実権を握り続け、坊津〜琉球を経て、明国やアジア諸国との貿易を陣頭指揮した。

 一乗院跡は昭和56年に発掘調査が行われ、明代の青磁や東南アジアからの交易品と思われるものが出土した。
 博多などの貿易都市では、文書作成や通訳(漢語)、手形業務(お金の授受)に精通している仏教僧が、貿易業務や外交事務を行っていた。同様に、一乗院が坊津の交易事業に大きな役割を持っていたことが、出土品からも立証された。

 江戸時代は薩摩藩主の尊崇を受け、広大な寺領と多くの末寺を持つ南九州屈指の大寺院になったが、明治2(1869)年の廃仏毀釈で廃寺。建物は破却され、伝来の宝物なども多くは散逸してしまった。

 現在、寺領跡は坊津学園小学校になり、ある意味今でも教育の場として活用されている。構内には廃仏毀釈の時に破壊された形跡が生々しく残る仁王像や、歴代上人の墓標、寺院の礎石跡などが残り、往時の面影を偲ぶことができる。

 上人の墓標は「四角墓」と呼ばれる石組みの構造で、日本ではあまり例を見ない。この墓が土俗的なものなのか、外国の影響があったのかは、分からない。現存する19基の墓石は、ただ静かにたたずんでいる。

●坊津の繁栄と落日

 「何風ニても船繋り自由(どの方角から風が吹いても、船の停泊は可能)」。
 江戸時代半ばに描かれた「薩摩國絵図」で坊津は、このように記して良港として紹介されている。

 どんなに悪天候でも、船が繋留できる港は貴重だ。黒潮の流れと天然の良港。坊津が交易地として古代から栄えたのは必然だった。
 坊津は千年以上も繁栄した史上稀に見る交易港で、その歴史を整理するとざっと、次のようになる。

 遣唐使の航路を入唐道(にっとうどう)と呼ばれていたが、有力な寄港地だった。唐の高僧鑑真が来港したのは、前節で紹介したとおりだ。
 
 遣唐使廃止後、国家レベルの大規模な交易は一時途絶えてしまうが、この一帯が近衛家の荘園だったこともあり、貴族がオーナーの船団が往来した。

 室町時代には、幕府が明国と勘合貿易を開始し、遣明船が往来するようになる。
 第9代将軍足利義尚は、遣明船の平戸経由を止め、坊津を発するように命ずるなど、再び坊津の名前が歴史の表舞台に登場するようになる。

 室町幕府の力が弱まると、各地の豪族が守護大名・戦国大名として独立した動きをするようになる。
 一乗院を保護した島津氏は、坊津を通じて明国との独自の交易もはじめ、琉球や東南アジアへも足を伸ばした。
 また一方で坊津に寄港したのは交易船のみではない。東アジアを席巻した倭寇(海賊または私貿易をする武装した商人)の基地という側面も合った。倭寇は略奪や貿易船の拿捕(だほ)といった海賊行為のみならず、大陸や朝鮮半島の港湾都市を直接襲うなど、大陸沿岸を席巻した。当時の東アジアでは重大な国際問題だ。
 倭寇は、南北朝の動乱など中央政府の力が弱まった時に日本側で活発化した(前期倭寇)。同様に大陸では明の力が弱まると、明人を中心とした海賊行為が活発化する(後期倭寇)。
 
 島津氏が大隅・薩摩での勢力を確立し、一方で織田信長や豊臣秀吉が天下人になり、日本の統治が安定してくると、倭寇は自然と沈静化する。島津氏に庇護された坊津は、明との交易を盛んに行なうようになり、冒頭で紹介した明の書物に日本三津として紹介されるにいたる。
 
破壊後が残る仁王像
一乗院跡の四角墓
 江戸時代になり、外国との交易が長崎に集中される(1635年)と、坊津は最大のピンチを迎える…、はずだった。
 実際は歴代薩摩藩主の直轄地として極秘裏に明との貿易(琉球を介した)を行っていた。

 薩摩の密貿易は、歴史に詳しい方ならば周知の事実だろうが、実はこの琉球を介した対外貿易は実は幕府公認だったこともご存知だろうか。もちろん貿易額や品目に厳しい制限があり、その超過分が「抜け荷」(密貿易)だったわけである。

 この密貿易の証拠が漏れないように厳重に、よそ者の立ち入りを鎖国と呼べるほどに管理され、送ったものの帰ってこない「薩摩飛脚」という言葉が生まれたほどだ。
 
 一般的に鎖国とは、長崎だけが外国との窓口となったかのように思われているが、実は4つの窓口があった。
 一つは、長崎でのオランダ・清との交易。二つ目は、対馬(宗氏)を通じた朝鮮との交易。
三つ目は、松前藩(現在の北海道)を通じた、北東アジア都の交流。そして、薩摩の琉球を通じた清、朝鮮との交流(南蛮船との密貿易も!)。

 坊津は実は、江戸時代も開かれた港だった。
 現在の坊津を巡ると、そのような国際都市だった面影はほとんどない。「密貿易屋敷」と呼ばれる坊津の豪商・森吉兵衛の屋敷跡「倉浜荘」などが残るくらいだ。
 
 一乗院の資料・海外交易の資料は「坊津歴史資料センター輝津館」で展示されている。ここからは、双剣石がそそり立つ坊浦を遠望できる。

 次回は、坊津の衰退を経て、枕崎のカツオ漁の勃興までを追いかけよう。


(3.坊津から枕崎へ へ続く)
 

坊津歴史資料センター輝津館
開館時間 9:00〜17:00(入館は16:30まで)
入館料 大人(高校生以上)300円、小人(小・中学生)100円、幼児無料
休館日 館内燻蒸日、館内整理日
住所 〒898-0101南さつま市坊津町坊9424番地1
電話 0993-67-0171
 

隼人たちが駆けた海原・薩摩半島南部 その3へ

 


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