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ホーム財団アラカルトRoad to Dazaifu|歴史の道・時の扉 隼人たちが駆けた海原・薩摩半島南部 その3(鹿児島県南さつま市坊津)

財団アラカルト
TheRoadtoDazaifu 〜太宰府への道〜
2013年10月08日

歴史の道・時の扉 隼人たちが駆けた海原・薩摩半島南部 その3(鹿児島県南さつま市坊津)

3.享保の唐物崩れ

 天然の良港である坊津は、古代から交易港として栄えた。
 正式な仏法を日本に伝えるために鑑真が来訪したこと。また、黒潮の航路に乗ってさまざまな文物が往来し、特に中世以降で最盛期を迎え、明の書物に「日本三津(博多、坊津、安濃津)」として紹介されたことについて、これまで触れてきた。

 中世から戦国時代にかけて島津氏の勃興とともに坊津も交易拠点として保護された。坊津は、琉球(当時)との交易の拠点として整備されたのだ。

 江戸時代になると、江戸幕府の政策で貿易が長崎の出島に限られると、日本各地にあった国際交易港は、国内航路の拠点に切り替わっていく。米の相場を決める大阪、当時世界でもっとも人口が多かった江戸、二大都市から全国へと拡散していく流通経路を形成していった。

 一方で坊津は、薩摩藩の琉球経営とリンクし、江戸時代も大陸方面との国際交易港として繁栄し続ける稀有な存在だった。
 薩摩が江戸時代、密貿易をしていたことはよく知られている。薩摩が琉球を介して行っていた交易は、江戸幕府の貿易を代行していたので、公式な貿易である。
 
 このように述べると、薩摩の密貿易とは、帳簿をごまかすような、「セコい」行為のように思われるかもしれないが幕末、薩摩藩の近代化を支えた資金は密貿易で得た部分が大きい。明治維新における薩摩藩は主導的な立場に立った。交易によって得た財力だけではなく、世界の情報を得たことも大きい。

 坊津は、琉球と大陸の中継基地として燃料や食料を提供して財力を提供し、また一方で直接的に船団と取引することで、鎖国化にありながら交易港として栄え続けていた。
 
カツオ遠洋漁業の父原耕
枕崎漁港の風景
 
 鎖国下の密かな繁栄は享保8年(1722)に終わりを告げた。
 密貿易港坊津が一斉取締りされたのだ。

 この時の取締りは徹底的で、坊津の海商および船舶は坊津を離れていった。船舶がひしめき合っていた港町は、閑散とした漁村に一変した。この事件を、「坊津の唐物崩れ」という。
 取締りは享保年間まで続き、逃散した海商は19人とされている。

 近世の坊津でどのような物量が交易されたのか、密貿易という性格上定かではない。
 一般的に「唐物崩れ」は幕府による取締りという認識が強いかもしれない。が、実際には、幕府主導の取締りなのか、薩摩藩の独自の取締りなのかは、定かではない。
 実際に摘発に携わったのは、薩摩藩の役人である。薩摩藩が坊津の海商の密貿易を摘発した。
 密貿易の拠点は坊津だけではなかった。大隅半島の志布志、薩摩の直轄地である奄美大島や屋久島、種子島も密貿易港として開発されていた。

 一藩が海外と密貿易しているのなら大罪だ。お家取り潰しという処分が下されてもおかしくはない。 坊津は、薩摩藩のスケープゴートになったのかもしれない。 
 千年の貿易港の繁栄は、ここで一旦幕を閉じた。
 漁業に活路を見出す中、琉球と清国の貿易はその後も続き、水や食料の補給などで船の寄港は続いていた。その時に細々と、密貿易は続けられていたという。
 
 坊津が国際交易港としての役割を終えるのは、近代化の波によってである。帆船から汽船になり、人と物資の大量輸送が可能になった。大都市近くに港湾施設を開発し、貿易が集約される。日本も、開国から明治維新を経て近代化が進むにつれ、坊津など大量消費地や工業地帯に遠い港町からは、人影が減っていくことになる。
 
 開発から取り残されたが坊津だが、鑑真も見た光景の面影が今も残っている。


●鰹の街・枕崎の誕生

 享保の唐物崩れによって、逃散した海商や密貿易船はどこに逃れたのだろう。
 その多くは枕崎港へ逃れて行った。現在は、全国でも有数のカツオ水揚げ港として知られているのはご存知だろう。
 枕崎のカツオ漁が発展する母体となったのが、坊津の人材と船だといわれているのだ。
 
 江戸時代中期は、紀州で開発された鰹節が日本の国内で流通していた。
 土佐や伊豆など太平洋に面しカツオ漁が盛んな土地では、燻製で魚肉中の水分を取り除く製法を取り入れ改良して、全国に知られる生産地となっていく。
 薩摩藩では享保年間以後に、本格的な鰹節の生産がスタートした、といわれる。
 
 枕崎の領主喜入氏は、唐物崩れにより逃れてきた密貿易船を保護した。密貿易船は比較的規模が大きい船であるため、遠洋航海が可能で、遠い漁場まで出かけられ一回の漁獲高も大きい。船主に特権的なカツオ漁や鰹節製造の権利を与えたため、枕崎では鰹節産業がすぐに根付いた。坊津の人材と船が枕崎の繁栄のもとになった。

 薩摩の鰹節発祥についてはまだまだ分からないことが多いが、寛政年間(1789〜1800)に発刊された『日本山海名産図会』には、「土佐、薩摩を名産とする」と記載されており、知名度だけではなく品質もトップランクになった。

 坊津の船と人材で勃興したとされる枕崎のカツオ漁は、今日でもなお盛んである。
 
日本最南端の終着駅碑
火之神公園の立神岩
 JR枕崎駅は「日本最南端の駅」として、さまざまなメディアに登場した。正確にいえば、JRでもっとも南にある路線の始発・終着駅だ。
 現在は、駅舎が鹿児島方面よりに100メートルほど移動し、新駅舎で操業されている。
 昭和24年(1949)に建設され、旅情を醸し出す駅舎として親しまれてきた旧駅舎は、観光案内所として再利用されている。旧駅舎時代に記念撮影の定番だった「日本最南端の終着駅枕崎」と刻まれた灯台の形を模したモニュメントも残っている。
 旅の情報収集に、ぜひ立ち寄りたいところだ。
 
 入江だった坊津に対して、枕崎の前には東シナ海が広がっている。リアス式海岸の入り組んだ地形の美しさもいいが、広々とした海原を見渡すのも心地いい。
 枕崎市立火之神公園は、岬の突端にあって大海原を体感できる。
 目の前には高さ42メートルを誇る立神岩が、そびえ立っている。古来、漁業の神として信仰されてきたという奇岩は、昼間は天然の灯台として機能してきたことだろう。
 立神岩と岬の間には潮流があるのだろうか、岩のたもとは絶好のポイントで磯釣りを楽しむ釣り人も多いそうだ。 

 明治42年(1909)までは、立神神社があり、立神岩と火之神公園一体を神の住む聖域として祀っていたという。立神と火之神は、海と川にまつわる神とされ、立神岩の間の潮流は、ツミやケガレを洗い清めると信じられてきた。

 また立神岩付近は夕日の名所だ。季節と見る角度にもよるだろうが、立神岩の突端に、ロウソクの炎のように落日が灯り、空と海を真っ赤に染めながら暮れていく風景は見事だ。
 古来日の沈む西方は、黄泉の国と信じられてきた。黄泉の国とは「死者の国」というイメージもあるが、人のツミやケガレを引き受け、最終的に浄化させる聖なる場所である。
 立神岩が「神」とされたのは、美しい夕景と無縁ではない。

 火之神公園の一角には、平和祈念展望台(戦艦大和殉難鎮魂之碑)もある。
 昭和20年(1945)4月7日、戦艦大和を旗艦とした二艦隊が沖縄へ向かう途中、米軍機との戦闘で轟沈した。展望台から真正面の、ちょうど水平線のあたりが沈没地点だという。
 枕崎港から約200km。薩摩富士と呼ばれる開聞岳や屋久島など南方諸島が見渡せる絶景で、恒久平和を祈りたい。

 次回は、黒潮の交流をめぐるさまざまなスポットを紹介します。



(4.黒潮交流スポット紹介へ続く)
 
平和記念展台

 


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