The Road to DAZAIFU ~大宰府への道~

2009年08月25日

歴史の道・時の扉 人と神仏がともに暮らす緑の里 宇佐・国東 その2(大分県宇佐市・山口県上関町)

2.クロスロードとしての宇佐・国東

●古代史の鍵を握る
 宇佐神宮を参拝すれば畏敬の念を抱くと同時に、「どうして、ここにこんな立派な神社が?」という疑問も感じることだろう。
 宇佐神宮は全国の八幡宮の総本宮であり、信仰や建築様式そして神仏習合の発祥地とされるからには、人が往来し文物が集積するポイントであったはずだ。また、多くの寺社を造営し、文化をリードするには、経済的にも豊かでなければならない。
 「発祥地」はクロスロードであり、フロンティアであるはずだった。現代の交通事情や地域事情を考えると、やはり「どうして、ここに?」という思いが強くなる。

 だが宇佐という地名は、神宮創建以前にもわりあいよく知られていた。
 神話の中にも宇佐は登場する。神武天皇の東征である。
 神武天皇はもっとよく葦原中国(あしはらのなかつくに=日本列島)を治めるため、日向を船出して東へ向かう。筑紫の国に向かう途中、豊国の宇沙に立ち寄ると、宇沙都比古(うさつひこ)・宇沙都比売(うさつひめ)が神武天皇の船団を歓待した。(古事記の神武東征神話より)

 神話は必ずしも史実ではない。が、少なくとも記紀神話がまとめられた8世紀はじめ(宇佐神宮や六郷満山開山の時期でもある)には、宇佐には神代から有力豪族のいる土地だと信じられていたことは疑うべくもない。しかも、神武天皇は東征の途中で立ち寄ったわけだが、当初から友好ムードで、大和王建との結びつきが強いことがうかがい知れる。

風土記の丘の赤塚古墳

風土記の丘の赤塚古墳

宇佐には古代遺跡も多い。大分県立歴史博物館がある「宇佐風土記の丘」は、東上田古墳群を整備した歴史公園で、園内には九州最古といわれる前方後円墳「赤塚古墳」(全長58メートル)がある。前方後円墳は、奈良にできた大和王権のシンボルであり、近年では朝鮮半島西南部の伽耶地方でも存在が確認された、古代史の鍵の“鍵穴”である。
 ちなみに大分県立歴史博物館には、宇佐神宮の本殿の模型や、後に紹介する富貴寺(豊後高田市)の原寸大の修復模型が展示されている。

 地図を見れば分かる通り、宇佐・国東から畿内へは、瀬戸内海を通れば一直線である。地政学的に見ても、九州のどのエリアよりも畿内との結びつきが強くても不思議ではない。
 だが宇佐は「発祥の地」である。中央からの影響も色濃いが、八幡信仰や神仏習合などは当地から中央へ発信された。古代九州は大宰府政庁を中心にして語られることが多いが、宇佐には独自の歴史が流れている。

●千年を超える交流
 国東半島と畿内との交流も盛んだった。
 国東半島の北端に伊美(いみ=国東市)という小さな漁港がある。
 平安時代、伊美の衆は自らの集落に石清水八幡宮を勧請しようと船を出した。すぐ近くに総本宮があるのに「わざわざ?」という気がしないでもないがともかく、無事にご分霊(ご神体)をいただき瀬戸内海を下向していると、嵐に遭った。その時に流れ着いたのが祝島(山口県上関町)で、島民の助けを受けた。
 伝承によると船が座礁したのは866年で、この時島には3軒の家しかなかったという。島民の助けのお礼に、伊美の衆は五穀の種や農耕技術を伝えたという。
 島民の助けもあって無事帰国した伊美では、念願のお宮「伊美別宮」を創建する。一方で祝島は、五穀の種で豊かな暮らしができるようになり、人口も増えた。
 その後、祝島と伊美の交流は続く。現在でも4年ごとに伊美別宮のご神体を乗せた船団を組み、祝島で神事を奉納する伝統行事「神舞(かんまい)」が、千年を超えて続いている(最近は2008年に開催)。

祝島に寄港する伊美の船

祝島に寄港する伊美の船

祝島では神楽を奉納する

祝島では神楽を奉納する

筆者は神舞を見学して、地元の方とお話しする機会をいただいた。  「祝島は漁業ではなく農業を主産業にする島。国東半島との交流で農業が発達したのだから、国東半島は古代、農業の先進地域だったのではないか? 神舞は伊美から農業技術などを学ぶ機会の創出だったのではないか」。雑談の中で、祝島の方がこんな風なことを話したのが印象的だった。全国とはいわないまでも、豊前からさまざまな技術が、瀬戸内や四国に伝わっていった可能性は高い。少なくとも、祝島が栄えるきっかけは、伊美との交流である。
 その方はこんなこともおっしゃっていた。「今ほど天気予報が発達する前は、祝島では山口の天気予報ではなく、大分のものを参考にしていた」。
 気候が似ていれば、国東産の種が良く育ち、国東の農業技術も適合する可能性は高い。私たちは地域やエリアを“陸地”でしか意識しないが、海上航路を含めた広範囲のものと考え直した方がいいのかもしれない。

 北部九州と朝鮮半島は海峡によって隔てられたのではなく、海峡によってつながれた文化圏だった可能性も近年は指摘されている。同様に、宇佐・国東半島は豊後水道・瀬戸内海を通じて、広範囲な文化圏を築いていたかもしれない。畿内にも影響を与えるような。

 話はずいぶんと横道にそれてしまったが、宇佐神宮と六郷満山の文化成立の背景を確認することはできたと思う。地政学的に、技術や文物が集積しやすい場所だったわけだが、それだけでは、中央政府や列島全土に及ぼす影響力を持てたことの説明にはならない。この独自の文化を築いたのはどのような人々だったのだろう?
(3.神々習合・神仏習合は人々の融和の宇佐モデル へ続く

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